愛の重さが違えばの話になった話

こんにちは。なんだかいつもパソコンの充電がなくて悲しくなりますね。

人間はできることしかできませんけれど、できることでやりたいこととやるべきことはちゃんとできる大人になれてるといいな、と思っています。

余白があってはいけない

学生なので、今の時期は春休みをしているのですが、日本人というのは(主語が大きすぎたかもしれない)どうしてぼーっとする時間を悪しきものとみなす傾向があるのでしょうか。

私は、なるべく惰性に生きたいと考えているので積極的に「何もしない時間」を私の人生に設けるのですが、やはり根底に「余白を作ってはいけない」「余白を作りたくない」という思いがあります。

最近これについて考えたのは、人間関係において割けるストレージの個人差です。

私はもともとこれが少なかったか、圧縮するのが下手だったかで人間関係に余裕がない人間でした。だから、幼少期は自分から友達を遊びに誘ったことはほとんどありませんし、放課後に友達と過ごす、という概念がありませんでした。

交友関係を「浅く狭く」つくっていました。余裕がなかったので。余白がなくてこれで満足でした。

ところが年を取るにつれ、「我儘に生きる」ことが人間関係の圧縮につながったのかもしれませんが、交友におけるストレージに今までの生き方だと膨大な余白が生まれることに気づきました。すなわち寂しくなっちゃった、と。暇すぎてネットばっかりするようになった、と。

余白ができてからは、誰かを積極的に何かに誘ったり、誘いに割かしホイホイついていくようになったと思います。(それでも周囲よりはずいぶん腰の重い人間だと思われているだろうと思います。以前の私は腰が重いというより、足がないというほうが正しいような感じだったので…)

腰重時代は「誰かを誘うなんて、相手の時間を私が奪うなんておこがましすぎる」と思っていましたが、実はこれはただ自分に余裕がなかっただけで後付けの自分本位で利己的な理由付けだったということに気が付きました。

相手には私の誘いを断る権利があるんだよな。腰重時代の私はたまに誘われることで「断ったら傷つける?私なんかを誘ってくれたのに傷つける?もう一生嫌われる?でも絶対行ったら浮くし楽しくない、無理」なーんてアホみたいなことを考えていましたね。結局「嫌われたくない」が加速しすぎて誰からも好かれないキツめの人間をしていました。

話激それなので戻しましょうか。

で、何が言いたいかというと、人間にはそれぞれストレージの差があると思っていて、ストレージの多い人間がストレージの少ない人間と上手に付き合っていくには、前者は複数の人間と関係を持たなくてはいけないのでは、ということです。

例えばゼラチンとジュースがあって、ゼラチンは少ない量でジュースを固めてゼリーにできるので、ゼラチン1パックに対してジュースは何種類もある、みたいな感じでしょうか。ゼラチンは使い切らないといけないでしょう。グミになれたら幸せですけど、どちらもそれはできない状況の話。

こうなると、ストレージの少ない人間は、寂しいですね。「私は彼だけだけど、彼にとって私は大勢の中の一人なんだろうな」ということです。

 

同じ容量の人間と最愛を

容量の多い人間だって困ってしまいます。彼女が自分しか求めない女だったら実際困りますよ。そうじゃないし俺の彼女は最高だと思っているのなら、あなたの容量も小さいのか、あなたの前であなたの好みをパフォーマンスしてくれている最高の女なのかもしれません。知らんが。とにかく俺の女は最高だと思っているのなら、あなたの女は最高です。幸せになって。

で、恋愛友情問わず同じ容量の人間と付き合わなくては心が死んでしまうと思うんですよ。

じつはだんだん話がそれて「愛の重さが違えばうまくいかない」って話になってることに気づいてました。

過去最高に支離滅裂ブログになってしまった…

唐突に終わるぜ!!!!!

では、