ゆずりはねっと

寛容は不寛容に対して寛容でいれば、いつか何かに不寛容になっちゃうよ。

最近思っていること

・みんな行動の理由を他人のせいにしすぎじゃない?てか私のせいにしないでよ!選んだ(あるいは選ばなかった)のは君じゃないか!じゃあ私が暴れたら私の言う通りにしますか?口ではすると言うけど絶対しないよね、私はあなたの思ってるようには動きませんよ自分が傷ついても相手を深く傷つけたい性分です。

・もっちゅりんに夢中だったけど、その裏で売ってたハニーチュロのホワイトチョコ版みたいなのいつでも買えるかと思って買ってなかったら終売してた。そういうことが人生に往々にしてある。

・人に「会いたくないよー」と言えない。会いたいとは言えるけど。NOと言いたい。なぜ言えないのか。まだ相手を好きになる可能性があるから。そしてそのせいで機会損失し本チャンを失う。↑の逆みたいな話だ。

「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」とすら言わせないことを美徳だと思っていた。

我慢して笑っていたら仕事が倍増えた。

でもじゃあわがままにしてたらいいじゃんと思えば、比較的大切にしたかった交友関係を失った。

私の八方美人はずっと下手だ。死角だらけで、結局誰にも刺さらない。

よく、「友達いないから」という発言に傷つくみたいなシチュエーションのコラムを見かけるが、それって全然他者への愛じゃない。どっち側も自己愛だ。

我慢しても、最後に全部破壊しちゃうので、じゃあ我慢してた分が損すぎます。堪えるのが苦手で厳しいです。

今日も職場の名簿に私だけ名前がありませんでした。へらっと笑っても、誰も私の顔見てないから関係ないね。かなり辛いかも。でも大丈夫です。

みんないつもありがとう。自分のことは最近好きじゃないけど愛します。

徒然なるまま思っていることを吐き出す

見捨てられ不安が非常に強いのだけど、そうなった理由がわからない。

肌の衰えを感じて、それが最近1番怖い。でも高い化粧品を使う財力もない。皮膚科に行くのも面倒。私って最悪だ。

年老いるのが怖い。子どもと関わる仕事をしているから、子どもの考えが段々わからなくなってきていて怖い。

自分が何をしたいのかわからない。不安だ。

人より健康に気を遣って生きているのに、人より不健康で遺伝子が憎い。

顔のクマがすごい。クマとりの整形に今1番興味があります。

不安すぎて占いに頼る時があるけど、不安を増長させて金を取る商売だってわかってはいます。

わかっちゃいるけど、目先の幸せを掴みたくなっちゃう←女すぎ

でもこれ↑って私に長期目標がないからかも。だから貯金もどのくらいすればいいかわからない。

目先の幸せを掴みたいのに、大事なことはちゃんと安定を決断できない。まだ白馬の王子様を探して宝くじを買って新聞の隅や桜木町で君を探しています。(桜木町に気軽に行けてめっちゃうれしい❗️オタクだから。)

 

チェーン店の安心感

転職して、中学生の頃から住みたかった憧れの街で暮らし始めた。(完全に蛇足ですが、中学生の頃から住みたかった街は2つあって、もうひとつはもちろん以前住んでいた街です…🫶)

以前住んでいたところには8年いて、引越しが多かった幼少期だったので、人生で最も長く住んだ場所でした。

結婚でも同棲でもない、誰かが近くにいるわけでもない単身での乗り込み、いくら憧れの街と言ってもかなり消耗しています。

3月まで持っていた職場での地位、好きな人との生活、慣れ親しんだお店、すぐに会える友達、洗濯機、冷蔵庫、ベッド、お洋服…全部を捨てて身一つで新天地へ降り立ちました。

何も知らないと本当に不安ですね。急に世界に1人になったみたい。スーツケースを階段から落として中身をぶちまけて膝を擦りむいた時に、田舎のおせっかいが嫌いで地元を出たのに、都会の人の無関心が悲しくて泣きました。

でも、平常時になってみるとこの温度感が非常に心地よくて安心しています。良かった。

安心というと、知らない土地で食べるマックや吉野家は本当にあたたかいです。チェーン店って本当にすごい。偉大すぎる。

誰も何も知らないけど、ポンデリングの味だけは同じだもん。最高。

これからどうなるか分からないけど、きっと大丈夫になっていくのかな。

私が聖杯戦争に負けて地元に帰ったら、一度は会いにきてね。

最近は、ミモザの香水ばかり気になります。でも買わないことにする。

 

自己顕示欲のなれ果て

 きれいな思い出で終わることをもったいないと感じる。もういらないと思うまで使い古したい。同じガムを味がしなくなるまで噛み続けて、それがもう引き返すことができないくらい愛着になって執着になって、他人から見たらごみ同然のそれをいつまでもいつまでも大切にしたい。汚れてしまった思い出を愛したい。もうどうにも戻りたくないところまできてしまった。

 

 恋愛というフィールドは疑似破滅が簡単にできてしまう。友達はダメだ。複雑に繋がりあっているから、大切に無難な選択をし続けなければならないと感じる。恋愛は独立している。今日、急に大恋愛が終わっても、婚姻関係がなければ、子どもがいなければ、ただの恋愛ならば、明日からその恋愛という単独の事象が失われただけで済む。0になっても、軽傷だ。最早、私は苦しくなりたくて恋愛をしているのかもしれないとさえ思う。心の平穏、人生のアガリを目的に恋愛していたはずなのに。よく、「自分を大事にしていないと大事にされないよ」と言われる。私は、恋愛における疑似破滅を楽しんでいるだけで、別に自分を大切にしていないわけではないのに、と思う。おいしいごはんを食べて、暖かい布団で寝て、本当に嫌なことからは逃げている。確かに、私の嗜虐心を煽るような態度は、大切にされていないような言動は、私を幸せにしたいと思う気持ちを減退させるものだと思う。だからこそ残念だ。このブログを読んでいる人は私を選んでくれないだろう。私にだって、幸せにしたいと思わせるだけのふるまいしかしないこともできるはずなのに。でもまだ自己開示の欲求が大きすぎる。私の大切な人には、私のことを「幸せになってよかったね」とか「明るくなったね」なんて思われたくない。「かわいそうな自分を可愛いと思っていて、滑稽だ」とか「惨めで残念だ」とか思っていてほしい。でもどうか「幸せになってね」なんて思わないでほしい。それって対象に興味がない人がいう言葉だから。忘れられるくらいなら強烈な嫌悪で私に執着して欲しい。いかないで。いつかこの気持ち悪い自己顕示欲が減退して、すべて忘れて今日までのことをきれいな思い出として残しておこうと思えますように。私は私に幸せになってほしいよ。目を背けないで生きていきたいです。このページは他力本願が作成しました。

 

織姫のB面

 「鮫川の話」というものを聞いた。あまり耳にしたことのある人は多くないかもしれない。暴力行為に対する認知のゆがみに関する話である。解説を聞いて、本当に驚いた。自分はこの物語の「性暴力の被害者」に対して、被害者だとは全く考えておらず、むしろ非難していた。時代や背景によって、人間の善悪の判断というものは簡単に変わる。しかし、あまりにも時代に則さない考え方は「認知のゆがみ」と捉えて、表出しないように心掛けないといけないと思った。

 中途半端な強さや能力の高さは今一番大切にされない。ひとりで生きていけるからだ。自分はそこに該当する人間だと最近まで思っていたが、この頃は、なんだかんだ弱者で、色々なひとやものに頼って生きているなと実感する。頼って生きていくことは当たり前の行動だが、それに対価がなくて良いのだろうか。私は、自分の持つもので払えるものがあるのならばその行為に報おうとするべきだと思うし、報いたいと思う。その心がけすら「被害者」と捉えられ、マインドコントロールされていると評価される時代だ。自分が強さと思うものも、その資産を凍結されないように信頼できる人にのみ提供するべきだ。若さは減るのだ。使っても使わなくても減るのだ。じゃあ使った方がいい!

 若さばかり売って何も残らなくなった先人が「若さを売るべきじゃない」という。でも若さは自然に減る。減るものだと知って、有効活用しよう。きらめきは売っても減らない。若さを売ることを「かわいそうに」と嘆く人が、私にはかわいそうに思う。今が一番若いのだから売った方がいい。

 私の認知はきっと歪んでいる。それを認めてもいい。この後何も残らないだろう。でも何か残す努力ができなかった。まだ間に合うだろうか。たとえ間に合うのだとしても、たとえ環境に恵まれていたのだとしても、その努力をせず泡沫を売り続けた私は間違えていただろうか。もし、間違えているよと熱血指導してくださる方がいたら、ご教授ください。お礼に目一杯のきらめきを売ります♡

醜態を晒したら私に興味もってくれる?

 恥ずかしいとか、緊張すると訴える人に対しての励ましとして「自分が思っているより他人は自分のことを見ていないよ」という決まり文句がある。私は、他の人と比べて他人のことをよく見ているという自負もあるが、こんな風には思えない。常に誰かに見られていると思って生きているし、常に誰かに見ていてもらいたい気持ちがある。これが精神疾患の駆け出しなのか、霊感なのか、欲求不満の表れなのかわからないけれど、家にいても常に誰かに見られているような気持ちになる。

 

 せめて自分が好きな人には、自分のことを見てもらいたい。これは長女の性なのだろうか。もういい大人なのに、自己顕示欲が衰えない。目立ちたい。視界に入りたい。でもそれは負の感情ではなく、正の感情で、人の視界に入りたい。

 

 私は、目立ちたがりの子どもだった。優等生でいたくて、正当でありたくて、正しい脚光を浴びたがっていた。いわゆる問題児や不良というレッテルを貼られる他の子どもが、自分より目立つことが本当に嫌いだった。その子どもも、間違った脚光に引き付けられる大人と他の子どものことも嫌いだった。私の正当性は、脚光を浴びたくてつくった歪んだ価値観だったし、能力もたいしてなかったので、やがて正攻法では目立てなくなった。学校で目立てなくなったので、インターネットで目立とうとした。希少な存在には価値があることを知った。でも、若さはあっという間に過ぎていった。私は、身体や個人情報を売ってまで虚構の脚光を浴びたいわけではなかった。期間限定ではなく、私そのものの価値を評価してほしかった。ありていに言えば、普遍の愛が欲しかった。

 

 人は(私は)ないものねだりだ。家族は私を愛してくれていたかもしれないけれど、私は、血のつながりは「私」の価値ではないと思った。私の考え方を、立ち居振る舞いを、認めて愛して欲しかった。その一方で自分に自信もない。だから奇抜であろうとした。奇抜が私の普通だと、自分に呪いをかけた。そんな自分が好きだった。

 

 価値がないと思っているものを売り込むのは難しい。偽った自分と思っている自分、ありのままでは愛されないと思っている自分を売ることは難しい。しかし、自分の価値を認識するために必要なものは買われて普遍の愛を享受することなのではないのか。この袋小路で私は死ぬのか。苦しい。どうするべきなのか誰かに教えてほしい。これは甘えでしょうか。でも実は袋小路だとは思っていない。なぜならこんなことを拗らせて悩んでいる私を可愛いと思って買ってくれる人がいるのではないかとまだ夢を見ているからである。いつまでも夢見る少女でかわいいね。愛してください。よろしくお願いします。