雪道は、次に歩く人が自分より楽になるから気に食わない。

オタク・コンテンツが日の目を見るようになったのは、つい最近になってからのような気がする。アニメや漫画、ライトノベル作品が次々と実写化し、ボカロPが地上波で活躍し、ロリータファッションやコスプレイヤーは羨望の目を向けられるようになった。

しかし、我々はオタク文化が蔑まれ、疎まれ、気味悪がられていたことを忘れることはないだろう。

 

私の両親はいわゆるインターネット弱者であった。パソコンの電源ボタンがどこにあるのかわからない、「何も触っていないのに壊れてしまう」、Excel表計算は信頼できないから電卓で確かめる――そういった人種である。

彼らに一貫しているのは、英語を読めない・説明書を読まない・自分で調べることをしない(あるいは図書館と信頼できる先人の知識しか信頼できない)ことであると私は思う。彼らは、エラー表示が何を意味しているのか分からないし、電源ボタンがどこについてあるのか書いてあるペラ紙を捨ててしまうし、”ggrks”が通じない。

そんな家庭環境で育ってきた私がインターネットの民となったきっかけは、先に記したオタク・コンテンツとの出会いである。

 

初めて俗に言うサブカル文化と触れ合ったのは中学一年生の時である。当時の友人が聴いていたボーカロイドの曲に衝撃を受けたことは記憶に新しい。

 

youtu.be

 

ブレス音が不快で人が歌う音楽があまり好きになれないことが多かった私にとって、ボーカロイドとの出会いは革命であった。

 

それから私はYouTubeと出会い、ほどなくしてニコニコ動画と出会った。

ニコニコ動画は私の人生を変えたといっても過言ではない。その流れ出るコメントに当時中学生の私の青春すべてが刻まれている。

色々なことがあってテニス部を中退(笑)した私がインターネット漬けのオタクのような存在になって両親は快く思わなかっただろう。

オタクになって、インターネットと出会って、私の交友関係は明らかに変わってしまった。

前述した通り、当時はまだオタクコンテンツに対して風当たりが強く交友関係はかなり狭まった。高校に入学するころにはオタクであることやインターネットの民であることを隠すようになった。

私は、恋愛の話をして、プリクラをとって、流行りのスイーツを食べて、流行りの音楽を聴いた。一方で受サロで私文を擁護し、ヤフーブログで1人5役を演じ、不思議ネットの「異世界に行く方法」を毎日試し、ニコ動で弾幕をつくり、スクフェスとチェンクロをやりこみ、ツイキャスで推し配信者にお茶を送りまくり、夢小説を書いた。

そんな毎日が充実していた一方でとても苦しかった。

しかし、そんな時代は終わった。今やオタクは多くの場面で受け入れられている。

私は今、Instagramで映えを狙いながらTwitterでバズを狙っている。好きな音楽を堂々と聴けるし、動画鑑賞が趣味であることはもはやありきたりである。

 

このことは大変喜ばしい。だが、当時私のことを陰でキモオタクと言っていた人間が「領域展開」のポーズをしたプリクラをとって、米津玄師の曲を聴き、ドヤ顔でMacbookを持ち歩くことにいら立ちを隠しきれないのは陰キャの性なのだろうか。

 

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」